キジル千仏洞壁画より |
| ◎7日目 朝方6時頃にふと目が覚めた。耳の中がジャリジャリいうので明かりをつけて見ると、耳に血が溜まっていた。別に痛くも気持ち悪くもなかったが、この様なことは初めてだったため、消毒液で耳を洗った。Mと同様私も疲れていたのかもしれない。結局そのまま朝まで眠れず、出発となってしまった。 思い続けていたクチャの遺跡へ今日行ける…。そう思うと、疲れなど気にはならない。前日出迎えに来たガイドさん、日本語のガイドである楊さん、そして運転手さん(この人も「楊さん」と言った)と共に出発した。 キジル千仏洞までの道のりは長い。車で4時間程かかる。しかし、カラクリ湖で馴れていたため、そう苦にはならなかった。 どこまで行っても真っ直な道がずっと続いている。周りは何もない砂漠である。その風景が1時間以上続いた。しばらくして西遊記の妖怪が出てきそうな奇景に出会った。岩がすべて同じ方向に傾いている。そしてその岩山の間を縫う様にして白い水のない河がある。塩水渓谷と呼ばれている場所だ。河の水分が蒸発し、塩の結晶だけが残って白くなっているのだと、ガイドの人が教えてくれた。 玄奘三蔵もここを通った。我々の様な車ではなく、馬でここを越えた。このようなおどろおどろしい場所をよく無事に越えたものだ、と実際に来てみて痛感した。塩水渓谷はずっとキジルまで続いている。車からの眺めはいくら見ていても飽きさせなかった。 ちょうど正午にキジル千仏洞に着いた。古代シルクロードの真珠とも言われた新疆最大の石窟である。敦煌の莫高窟に匹敵する親模だが、一般に公開されている窟はまだ不明。この千仏洞は3〜4世紀から9世紀にかけて造営された石窟で、現時点では236窟確認されている。その内の20窟を私達は見ることが出来た。 まず、私が一番行きたかった第8窟へ。窟の中は非常に涼しい。天井が高く、真っ暗である。私は壁に描かれている一つ一つの飛天に懐中電灯を当てて、じっくりと確認。イスラム教の侵入によって、飛天や仏の顔はすべて無惨にも削りとられていた。それらの表情がどの様だったか、今日では判らなくなってしまっている。
「美しいものは・・・どの様な人が見ても美しい筈なのに…。なぜ、こんなむごいことを人はするのでしょうね。」と、私はガイドの楊さんに言った。楊さんは静かに言った。「これも歴史の流れなんですよ。残念です。でも、それよりももっと残念なのはこれです。」そう言って楊さんは、壁の一部を懐中電灯で照らして見せた。その部分だけ壁画がなく、四方形に削られて中の土がむき出しになっている。 「ドイツの探険家が持って帰ってしまいました。この部分は今ドイツの博物館にあります。」 ヨーロッパの探険家がシルクロードを旅し、記録を残していることは有名である。特にイギリスのスタイン、スウェーデンのヘディンなどはよく知られていて、その記録も詳しく残されている。私もそれらの本を読み、シルクロードヘの夢を募らせた。しかし、彼らによって遺跡の数々が持ち去られたことも事実であり、おそらく中国の人達にとって彼らは敵なのであろう。そう感じた。 顔のない飛天を眺めていると、天井の剥がれかけた壁のところに楽器を持った飛天がいるのに気が付いた。琵琶を弾いている姿の飛天だ。フレットが5つある。まさしく五弦琵琶だ。「あった一!!」と、思わず歓声をあげた。これを見たいがためにクチャに来た。そして、とうとう自分の目で見ることが出来た。やはり美しい。この暗い石窟と奈良が、私の中で本当につながった一瞬である。ここまではるばる来た甲斐があった、と心から感じた。
他の窟にも入ってみる事にする。公開されている窟がバラバラなため、長い階段を何度も上り下りしなければならなかった。気温は39℃まで上がっていた。暑い。しかし、何度階段を上っても汗が出てこない。極度の乾燥のせいで、汗をかいてもすぐに蒸発してしまうからだ。掌に塩の結晶が出来ていた。 他の窟も、イスラム教徒の迫害で顔をやられていた。飛天達が痛々しく思え、その様な状態ゆえに尚更美しいと感じた。仏像は一体もない。すべて盗まれたか壊されてしまった様だ。歴史の流れを感じざるを得ず、ひたすら悲しい光景であった。 公開されているすべての窟を見終わって、トボトボと入口に戻って来たが、歩いている途中から意識が朦朧とし出した。昨日Mも鼻血を出したが、やはり疲れがたまっているのを痛感せざるを得ない。そう言えば朝方に耳から血が出たと思い出し、楊さんにその事を話した。 「乾燥で粘膜をやられてしまっているんですよ。外国から来た人はよくそうなります。」 なるほど。そう言われてみれば鼻や耳の中がカサカサになっている。日本では考えられない。この後すぐ昼食だったため、水分をとることが出来、また頭を冷やすことも出来たので、意識の朦朧さはすぐに治まった。しかし、これ以降度々暑さのため身体がだるくなる事はあった。 シルクロードでの1番の大敵はやはり乾燥である。2番目に砂、3番目に暑さと続く。私達も外出の時はどのような暑さの日でも、必ず1枚長袖の服と水筒を持ち歩いていた。汗がすぐ蒸発してしまうため、肌をさらしていると脱水症状になってしまうからだ。実際水分をかなり取っていたので(1日2〜3リットル程)、半袖でも大丈夫だったが、髪の毛や唇、鼻や口は乾燥を免れなかった。水分をいくら補給しても喉は乾く。1日に1度もトイレに行かないで済んだ日もあった。 砂は乾燥の次に恐い。何処へ行っても砂ぼこりが凄いし、車で走っていると尚更だ。煙の様にモクモクと立ちこめるため、前が見えないこともしばしばである。それでまた気管支をやられてしまうのだ。 暑さについては日本の様な蒸し暑さではなく、カラッとした暑さなので、40℃ぐらいでもそれ程ある様には感じない。ただ、日中の暑さは「暑い」と言うよりも「痛い」と言った方が良いだろう。 私は、今まで味わった事のない身体の症状に度々悩まされ、なるべく車の中では眠る様に心がけた。肌に刺すように太陽が照りつけてくる。フィルムが何本かその暑さのせいで溶けて変形してしまった。 昼食後、キジルを出た私達もその3つの大敵に悩まされる。暑いから窓を開けると、砂が入ってきてむせかえる。こういう時のためにゴーグルを持って来ていた。サングラスでは砂避けにはならない。ゴーグルをして、マスクをして車に揺られていた。Mが「不気味だわ。」と私の方を見てつぷやく。不気味だろうが何だろうが、砂が入って来なければ構わない。しかし、あとで鏡を見るとやはり不気味であった。 砂にまみれて1時間、車はクズルガハ千仏洞に到着。キジルより小さいが、側にある峰火台はかなり大きい。ここは6窟しか見せて貰えない。キジルと同様、ほとんど何も残っていない。ただ、壁画の中には非常に美しいものもあった。 ここの石窟の管理しているお兄さんが興味深いことを教えてくれた。毎日の様に天井の壁画が少しずつ剥がれ落ちていっているそうで、お兄さんはしきりに足元の砂をはらっていた。 「あった。これです。」そう言って砂の中から米粒程の固まりを探し出して私達に見せてくれた。緑色をしている。天井の壁画と同じ色だ。毎日毎日、壁画の仏はこのように剥がれ落ち、いつかはなくなってしまうのであろうか。それもまた、寂しいことである。 クズルガハを出て、一端ホテルに戻る。そこでお茶を飲んだ後、今度はスバシ故城へと車を走らせた。クチャ河を挟んでスバシ故城は点在する。1体何ヘクタールあるのだろう。昔の劇場、寺院、町、などがこの一角にあり、すべて周るには広過ぎる。ガイドさんは入口で待っていると言って中には入ろうとせず、結局私達2人だけで故城見物する事になった。他の観光者も誰もいない。だだっ広い故城にたった2人だけである。 そのままひたすら歩き荒れ果てた仏塔に登ってみた。やはり誰もいない。只々寂しい光景である。 「夏草やつわものどもの夢のあと」まさにそういった光景である。「荒城の月」の光景よりも、ムソルグスキーの「展覧会の絵」に出てくる「古城」よりも、もっと寂しい。私達は古来このスバシが栄えた事を思い起こし、物思いに耽った。日本ならばもう少し手入れをする事だろう。しかし、このスバシもいずれは砂に戻る時が来て、跡形もなくなくなってしまうのかもしれない。 故城から戻ってくると一台の4輪駆動車がこちらに向かってきた。目の前で止まる。降りてきたのは数人の男性。服装から見てどうも日本人の様だ。思わず声をかけた。 東京から来たと云うその数人は、これから私達が向かうトルファンから来たと言う。トルファンの情報などを教えてもらい、別れを告げた。日本人はどこの国にいってもいるなあと感じながらも、妙な心強さを感じた。 スバシから再びホテルに戻る。夕食は軽く済ませる事にした。食欲が全くないのだ。身体に優しい冬瓜のスープとチャーハンを頼み、ポソポソと食べた。眠気の方が勝っており、食事をそそくさと済ませて部屋に戻る。 早めに眠らなければ翌日の山越えに応えると思い、素早く洗濯を干しベッドに倒れ込んだ。目が覚めたらいよいよクチャからトルファンに向けて約700キロの車の旅だ。しかし、この時点でどの様な事になるのかは、全く想像出来なかった。 |
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